高山若頭が出所後、六代目山口組、三代目弘道会内で人員の刷新が行われている。
前にも記事にしたが以前、記事にもしたがあの元大物芸能人 島田紳助氏を助けた事で世間でも有名な極心連合会 橋本弘文会長の引退に続き大阪の六代目山口組若頭補佐 二代目健心会 会長が六代目直参改めて高山若頭の舎弟になり二代目健心会は預かりになり三代目弘道会に参画した。
これによりより強固な組織固めが予想される。
高山若頭が江口健治会長を舎弟に直した意図とは
二代目健心会 江口健治会長は初代健心会から若頭を務めてきた。初代健心会 杉秀夫会長が長期服役中の間、組を守り、また、六代目山口組若頭補佐になってからでも高山若頭が服役中の間、神戸山口組が分裂しようとも六代目山口組側として高山若頭の留守中を守った事は評価が高いと思われる。
系列から言えば二代目健心会は山健組派、六代目山口組から分裂した神戸山口組の中核は山健組であり、関西に拠点を置くことからして神戸山口組からの誘いが江口会長にあってもおかしくない。
その組織に忠誠する姿勢が高山若頭の目に掛かりこの度、六代目山口組直参改め高山若頭の舎弟直し、二代目健心会は温存のまま弘道会の預かりになったのではなかろうか。
山口組において江口健治会長の功績は大きい
初代健心会は初代 杉秀夫会長が1953年8月22日生まれで山健三羽烏と言われた健竜会、勢力会、健心会の1人と言われた杉秀夫初代会長の下で渡世修行するも
田岡一雄山口組三代目組長が京都のクラブ「ベラミ」で松田系組員に銃撃されその報復行動となった大阪戦争では初代杉秀夫会長と共に大阪戦争に加わり初代会長共に江口健治会長は長期服役をする。
平成元年、長期服役中に健心会は五代目山口組直参となった。初代杉秀夫会長より先に出所していた江口健治会長が当時初代健心会若頭として実質的な組織作りをする。
六代目山口組体制となると、初代会長は引退し健心会二代目に江口健治若頭が就任するも今までの功績あったのか直ぐに慶長委員、若頭付、幹部、組長付等の任務を遂行し現在は最高幹部である若頭補佐(関西北ブロック長)を務めた。
江口健治会長をわざわざ六代目山口組若頭補佐から高山若頭の舎弟直しにした事、二代目健心会を弘道会預かりにした高山若頭の考える先には何か深い意味が隠されているのだろう。
この様に江口健治会長は山口組ぐるみでの大阪戦争に参加し健心会をここまでにした功績は大きい。
☟次ページ 五代目山口組当時の健心会
- 1
- 2