山口組が神戸山口組【井上邦雄組長】、絆会(元 任侠山口組)【織田絆誠会長】と分裂し強権支配で圧倒的な統率力で弘道会、六代目山口組の強さを見せつけた山口組ナンバー2の高山清司(清志)若頭の事についてまとめてみました。

出典 東京新聞

高山若頭のプロフィール

本名 高山清志(渡世名 高山清司)

渡世名の「司」は六代目山口組司忍組長の名前「司」を使ったといわれてます。

生年月日 1947年(昭和22年)9月5日生

出身地 愛知県津島市

高山清司が生まれ育った愛知県津島市の街並み

 

渡世入りは20歳

高校生時代は野球好きであったが喧嘩で高校を中退しその後、渡世入りをする。

その後、博打場に出入りする事になる。

渡世入りから

1967年(昭和42年)20歳 弘道会前身の弘田組(弘田武志組長)傘下、佐々木組(佐々木康裕組長)組員になる。
1969年(昭和44年)22歳 5月に弘田組傘下の組事務所が大日本平和会山中組小牧支部の集団に襲われ2人が死亡する事件が起きると、同年7月、弘田組若頭・司 忍(司興業組長。後の六代目山口組組長)の指揮で行われた大日本平和会春日井支部長殺害の報復戦に加わり、懲役4年の刑を受けた。この功績により出獄後、佐々木組若頭に就任。
1975年(昭和50年)28歳 初代弘道会々長、六代目山口組 司忍組長と出逢う
同 年 弘田組は若頭に現在の司忍組長を据え「司興業」を結成

佐々木組々長も弘田組長から親子盃を受け「佐々木組」を結成、若頭に高山清司氏を据える。

1976年(昭和51年)29歳 佐々木組は組織名を菱心会と改称した。高山氏は直参となり理事長に就任。その後高山氏は高山組を結成し弘田組直参に昇格する。

出典 毎日新聞

わずか20年足らずで弘道会を4000人の巨大組織にした切れ者

1984年(昭和59年)37歳 山口組、一和会の分裂騒動で弘田組長は引退、当時若頭であった司忍組長が二代目弘田組を継承し、若頭補佐に高山氏が就任するも元親分であった元佐々木組佐々木康裕組長は弘道会で相談役に就く(後の五代目山口組若中となる)。
同年 1980年には同組若頭補佐に就任した。

弘田組を改称し弘道会と改め(会長・司 忍)では若頭補佐兼渉外委員長を務める。

1989年(平成元年) 弘道会若頭に就任

名古屋地元組織の運命共同会・中京五社会と抗争が始まる

1991年(平成3年)44歳 名古屋の地元組織中京五社会所属の八代目稲葉地一家の本部長・中村英昭(後の九代目稲葉地一家総裁)と兄弟盃を交わす事で長く続いた抗争を終結させる。名古屋地元組織の運命共同会・中京五社会と抗争し壊滅させ多くの組織を傘下に収める
2005年3月(平成17年)58歳 弘道会司忍会長は二代目に高山清司氏に跡目を譲り司忍組長は二代目弘道会総裁、司忍組長は弘田組組長に兼任。
同年 1月髙山組を若頭・竹内照明に継がせて二代目髙山組総裁に就任。3月弘道会二代目を継承し4月に山口組直参に昇格。
同年 6月には山口組若頭補佐に就任し、7月に山口組中部ブロック長を兼任。8月には六代目山口組組長に就任した事で六代目山口組若頭に就任する。

(左)司忍六代目山口組組長 (右)高山清司若頭

八代目稲葉地一家の本部長・中村英昭(後の九代目稲葉地一家総裁)と兄弟盃動画 

山口組六代目組長司忍(篠田健市)の全て、名古屋弘道会から六代目組長になるまでの来歴

☟次ページ 六代目山口組若頭就任後

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