橋本弘文会長の経歴
橋本弘文会長は1947年(昭和22年)1月8日生まれ
1963年頃に大阪の独立組織であった南一家吉田組に加入したが、吉田組が程なく解散したため、自ら橋本組を結成した。
1976年、山本健一組長から盃を受け、初代山健組直参として加入。
1983年、極心連合会を結成、直後に勃発した山一抗争では武闘派として抗争に参加するなど次第に頭角を現した。
1987年、二代目山健組若頭代行となった。
1989年、桑田兼吉が三代目山健組の組長となった。橋本弘文は三代目山健組若頭となった。
1997年に桑田兼吉が逮捕された。
2003年、組長不在であった山健組において組長代行となった。
1987年から十数年にわたり、最高幹部として山口組最大勢力であった組織の土台を支えた。
2005年4月、五代目山口組の直参となった[3]。
2005年6月、六代目山口組の若頭補佐となった。
2012年4月、六代目山口組の統括委員長となった。
引用 ウイキペディア
https://hidekazu.info/takayamakuwana
長年、山健組を支えてきて功績は大きく、それが当時五代目山口組に認められ本家直参になりすぐ執行部入った。六代目に代わっても橋本会長の存在は一目置く存在だったのであろう最近では六代目山口組統括委員長を務めていた。
山口組、分裂時に山健組出身者であることから神戸山口組からの誘いはあっただろう。
一時は移籍説まで浮上した。しかしブレずに六代目に籍を置き、六代目山口組統括委員長として任務を遂行したのだ。
その影響もあり神戸山口組からの離脱組織の受け入れにも極心連合会 橋本会長は貢献した事は言うまでも無い。
2018年2月11日、山健組より絶縁処分された二代目兼一会は、21日山口組系極心連合会が受け入れているのである。
そして高山六代目若頭が出所後に人事改革で二代目兼一会 植野雄仁会長は六代目直参に昇格している。
同時に岡山にも本部を置く三代目杉本組 山田一組長も六代目直参に昇格している。