12月1日は五代目山口組渡辺芳則親分は逝去された日である。今年(2020年)で7回忌を迎える。特に大きな分裂や内部抗争もなく安定した時代で組織をまとめ上げた時代であった。五代目体制時になった時、世間、マスコミは長く続かないだろうといわれていたが長期政権を築いた。最後はクーデター的に引退させられた形になるがそれが無ければ五代目山口組ももっと長く続いた事だろう。7回忌を迎える今、渡辺親分を偲んでみる。
渡邊芳則親分とは
1941年〈昭和16年〉1月8日栃木県下都賀郡壬生町の富農の家に生まれる
1956年(昭和31年)、中学校を卒業し、上京。17歳の時、ヤクザになる。若い頃は、ゴローと呼ばれていた。
1957年(昭和32年)、東京浅草の日本蕎麦屋に住み込みで働いた。
1958年(昭和33年)、飯島連合会系のテキヤを手伝うようになった。
浅草を中心に活動していたが、三代目山口組 山健組の幹部と出会ったことから神戸に移住、
このころ、三代目山口組山健組・山本健一組長の若衆・三輪正太郎と知り合った。三輪は、東京で芸能人相手の野球賭博を営んでいた。三輪から山健組に来るように誘われた。
三代目山口組内初代山健組入りへ
1961年(昭和36年)、山健組組長・山本健一から盃を受け、山健組に加入した。
1964年(昭和39年)、函館少年刑務所に服役した。
1965年(昭和40年)、山口組に対する第1次頂上作戦が本格化した。
同年、山健組舎弟頭・田中達男より、山健組を破門された。
同年、山本健一より破門が解かれた。
抗争を巡る服役後の1969年(昭和44年)、山健組若頭に就任。 二代目松田組との「大阪戦争」と呼ばれる抗争事件などに積極的に関与したため、1976年(昭和51年)10月に銃刀法違反などの容疑で逮捕され、懲役2年4月の刑で1979年(昭和54年)2月から1981年(昭和56年)6月頃まで服役した。
山健組二代目を継承
山口組3代目・田岡一雄の跡を継いで四代目を継承すると見られていた山本健一(山口組若頭)が1982年(昭和57年)2月4日に急死すると、山健組二代目を継承、 同年6月には三代目山口組の直参に昇格した。
四代目山口組体制執行部入りへ
1984年(昭和59年)6月、竹中正久を組長とする四代目山口組の発足に伴い若頭補佐に抜擢される。1985年(昭和60年)1月に竹中と共に若頭・中山勝正(豪友会会長)が一和会に暗殺される(山一抗争)と、翌2月、暫定執行部体制で若頭に就任。
山口組の頂点へ
1989年(平成元年)3月、一和会との抗争が終結。同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組・矢嶋長次組長も出席していた。同年4月27日、五代目山口組組長に就任した。組長在任中は若頭・宅見勝らの方針もあり警察との対立を避け、ブロック制導入などの合理化・統制化を勧め拡大路線を推進し続けた。
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では救援に手間取る行政機関よりも早く近隣住民への防災用品や緊急食料の配布を本部事務所にて行った。その模様はイタリアのマスメディアにて「マフィアが救援活動」と報じられ、被災者からも感謝の声があった。この救援活動は世界中で報道されている。
2004年(平成16年)11月、山下組組員警官誤射殺事件で藤和会系山下組組員が京都で起こした不法行為に対する使用者責任を認定した最高裁判決を受けると、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲。2005年(平成17年)、体調不良により引退した。
2012年12月1日、兵庫県神戸市中央区の自宅で死去71歳没。
六代目襲名クーデター説
2005年7月司忍が六代目山口組組長に就任するが、この交代劇に関し盛力健児の著書「鎮魂」などに渡辺が限りなく「クーデター的に」代替わりさせられた説がある。
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